ぼちぼちな日々 - BRASH BLOG

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2016年04月05日

ローカル・スタンダードをデザインする 

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調査・講演に明け暮れた秋、執筆に追われた冬がすぎて、春。

ひさしぶりのブログ・アップは、授業の紹介です。

 

明治大学に「学部間共通総合講座」というのがあります。学部や専門の枠を超えた、学際的内容を扱うもの。専任教員なら誰でも提案できるということで、昨年より春学期(前期)と秋学期(後期)、それぞれ一つずつ、コーディネーターとして関わっています。で、今年もひきつづき同じテーマで、前期は「ローカル・スタンダード」、後期は「インティマシー」をキーワードとして構成。二つのベースにあるのは、「環境人文学」という視点です(カタカナ・漢字ばかりですみません。詳しくは下記の概要で)。

 

テーマは同じですが、曜日・時間は変えました。曜日は水曜、時間は去年より一つ遅い、6限目(18:00-19:30)。あくまで明大生向けの授業ですが、少しでも多くの人にアクセスしやすいように、と思って(パリに、コレージュ・ド・フランスというのがあります。フランスの知の頂点を担う高等教育機関ですが、基本誰でも受講できる。大学の授業って本来そうあるべきじゃないか、というのが密かな思いでもあります)。

 

以下、ひとまず春学期の概要です。ご参考になさってください。

...

...

明治大学 学部間共通総合講座「環境人文学Ⅰ」

コーディネーター : 鞍田 崇(理工学部・准教授)

開講日 : 水曜日/6限(18:00-19:30

教 室 : 駿河台キャンパス リバティタワー1084教室(8階)

 

◆春学期(環境人文学Ⅰ):ローカル・スタンダードをデザインする

(趣 旨)

環境問題をはじめ現代の社会問題は、多様性を損ない画一化へと邁進するグローバル化の「ひずみ」といえます。ひずんだ社会を次のステージへと変革するための道筋を考えるのが「環境人文学」のねらい。でも、どうすればよいか。すでに多くの取り組みがなされています。多くのデータが蓄積され、多くの制度的・技術的対策が実施されています。何より多くの人が問題に気がついています。でも動こうとしない。問うべき点はここにあります。人々を社会変革へと誘う駆動力となるもの、それをここでは「ローカル・スタンダード(地域に固有でありかつ普遍的な価値)」の確立において培われる地域社会への「共感」に求めます。ローカル・スタンダードの確立手法であると同時に、共感の深まりを示す「言語化」・「体験化」・「感性化」・「社会化」という4つのプロセスについて明らかにするとともに、社会状況や思想背景を論じる「概念化」、さらには「実践例」について扱います。

 

(内 容)

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- いまなぜローカルか、いまなぜ共感か

- 理工学部・准教授

- 鞍田 崇

シリーズ初回にあたり、コーディネーターより、講座の概要、成績評価方法等を説明します。ローカル・スタンダードは地域固有でありかつ普遍的な価値。地域の中だけで通用するという意味ではなく、地域に固有なものに徹底的にこだわることで,むしろ域外の人々の共感を集める普遍性を獲得する,そういう意味です。しかしなぜいまローカルなのでしょうか。なぜ共感なのでしょうか。この点を理解するには、20世紀から21世紀へ、ゼロ年代から10年代へといった大小のタイムスケールの中での社会変化を理解する必要があります。まずはその点をじっくり考察していきましょう。

 

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- 【共感の言語化①】話すことと聞くこと

- 東京大学大学院総合文化研究科・教授

- 梶谷 真司

共感の「言語化」の基本的ふるまいは「対話」にあります。しかし、そもそも人間にとって、「話す」と「聞く」とは、どういうことを意味するのか。それが大事なのはなぜなのか。この二つはどのように関連しているのか。とりわけ「聞く」ということから見た場合、そこに浮かび上がってくるのは、「自由」の問題です。そこで本講義では「話す」と「聞く」と「自由」の関係について考えてみます。

 

427日 

- 【共感の体験化①】さまざまなローカルの実地調査法:人類学・民俗学の立場から

- 東北大学大学院文学研究科・准教授

- 山田 仁史

地域社会に寄せる共感は言葉の中だけでなく、あたり前のものとして素通りしていた日常のリアリティを実感をもって見直すことで、より深まりを示すものと考えられます。共感の「体験化」が扱うのはそうしたフェーズ。でも、実感をもって見直すというのはどういうことなのでしょうか。たとえば、電気も水道もトイレもないラオスの村で、村人たちとオオトカゲを食べたこと。台湾原住民(先住民)の伝統的お祭が、しだいに観光化され、今では無形文化財として保護の対象になっていること……。学問として対象を観察し調査する方法についてお話しします。

 

511日 

- 【共感の可視化①】デザインをデザインする

- 名古屋芸術大学デザイン学部・講師

- 水内 智英

共感は形あるものとすることで、より深まりを示しさらなる共感の要にもなります。それが「可視化」。プロダクト、グラフィック、制度など、さしあたりデザインの領分を想定しています。他方,地球環境問題や精神環境へのケア不足など、私たちの社会が抱える問題は益々複雑化し、その解決は単純な方法では行えないことが認識されてきました。そうした背景のなか、デザインが社会において有益な役割を果たすためには、デザインそれ自体をデザインする必要に迫られてもいます。具体的事例を踏まえながら「共感のデザイン」の今日的意味を考えます。

 

518日 

- 【実践例①】まちの本屋がつくるシーン

- BOOKS f3・主宰

- 小倉 快子

ローカル・スタンダードはすでにさまざま形で試みられている社会アクションを俯瞰する視点でもあります。本講義では「本」をめぐる二つの実例から、この視点の有効性を検証します。最初の例は「本屋さん」。いま本屋の役割が変わりつつあります。本を純粋に楽しんだり、アートに触れたりすることは、ローカルに居ながらホンモノにふれるインプットの機会をつくること。そこから地元のことを考えたり、発信していくようなアウトプットの場ともなること。その流れを無理につくるのではなく、ふつうのこととして受け入れられるまちにするために、本屋ができることについて考えます。

 

525日 

- 【共感の概念化①】ヴァナキュラーなグローバリズム:世界農業遺産を例に

- 総合地球環境学研究所・教授

- 阿部 健一

本講義の背景を考えるのが「概念化」。ここではそもそも地域性とは何かについて「遺産」という視点から二つの話題について考えます。まずは農業。農業というのは本来の土地に根差したもの。地域によって違ってあたり前です。それでも共通した「価値」があるように思われます。FAO(国連食糧農業機構)による「世界農業遺産」というコンセプトを紹介しながら、地域性における変えてはならないものと変えなければならないものについて考えたいと思います。

 

61日 

- 【共感の可視化②】インクルーシヴ・デザインという発想

- 京都工芸繊維大学Kyoto Design Lab・特任教授

- ジュリア・カセム

デザインの社会的役割の変化に伴い、従来の結果志向ではなく、完成にいたるまでのプロセスそのものの在り方を重視する試みが様々に行われています。1990年代末にイギリスではじまったインクルーシヴ・デザインはその代表例。作り手と使い手の協働に力点を置いたそのアプローチは、製品設計だけでなく、地域社会における新たなコミュニティ形成にも応用可能なものといえます。その骨子はどこにあるのかについて考察します。

 

68日 

- 【共感の体験化②】ローカル・フードとは何か?

- 秋田公立美術大学美術学部・講師

- 石倉 敏明

体験化は五感を通じて理解を深めることを意味します。その特性をここでは生きていく上で不可欠な「食」とのつながりから考えます。「郷土料理 local food」と呼ばれる食の体系には、地域の環境に棲息する「生き物」を解体し、「食べ物」につくりかえる精細な知恵や技術が潜んでいあす。私たちはなぜ、地域の動植物を殺し、これを食べることができるのでしょうか。「在来知」に潜む可食性の問いから、未来の食をめぐるローカル・スタンダードを展望します。

 

615日 

- 【共感の社会化①】地域変革の主体形成

- NPO法人コミュニティビジネスサポートセンター・理事・事務局長

- 中森 まどか

共感は、地域や世代を越え、より広範囲な人々を巻き込むことでさらなる深まりを示します。「共感の社会化」が想定するのはそうしたステージ。ここでは特に「人づくり」に注目してこのステージの意義を考えます。市民参加の文化を醸成するためには、地域づくりに参画する人びとの輪を広げるとともに、協働を促進するためのプラットホームを形成する必要があります。地域の規模や状況に応じて、参加と協働の基盤をどのように形成していくべきかという課題について、具体的な地域づくりの事例をもとに考えます。

 

622

- 【共感の言語化②】トランスリンガル詩学

- 理工学部・教授

- 管 啓次郎

「対話」は一言語内だけで行われるものではありません。とりわけ20世紀後半以後、世界文化の混成化は加速する一方です。経済移民や政治的亡命者、内戦による難民など、さまざまな事情により人々が大規模に移動し、各地の都市は多言語多文化の実験場となっています。カリブ海フランス語圏の作家エドゥアール・グリッサンのクレオル化の思想をたどりながら、多言語性に基礎を置く惑星文化の可能性を探ります。

 

629

- 【実践例②】工芸と本

- 新潮社「工芸青花」・編集長

- 菅野 康晴

グローバリゼーションがもたらした産業界の過剰なファスト化に対する抵抗がさまざまに行われつつあります。スロー・フードやスロー・ファッションはその好例といえるでしょう。同様の流れは出版産業にも起きています。従来の大量生産を前提とする出版のしくみにひずみが生じています。このひずみを克服し、別のありかたを模索する実例として、2014年に新潮社で立ち上げられた「工芸青花」という雑誌の試みがあります。同誌が参考にしたのは出版ではなく、手工芸作家の取り組みでした。工芸と本の量と質について、同誌の試みをもとに考えてゆきます。

 

76日 

- 【共感の概念化②】なかなか遺産:建築は,ローカルスタンダードをデザインできるか?

- 東京大学生産技術研究所・教授

- 村松 伸

地域の「遺産」をめぐる二つ目の話題は建築。近年、建築は地域の活性化に寄与する主要なツールとして、世界遺産をからリノベーションまでさまざまに注目されています。しかし,既存の取り組みではカバーできず、そのままみすみす取り壊されることにもなりかねない地域遺産があります。建築史家の村松伸さんは、それらを「なかなか遺産」と呼び、別の考え方で活動を始めました。その取り組みにおける成功・失敗の体験を踏まえて、建築とローカルスタンダードとの関係を考えます。

 

713日 

- 【共感の社会化②】参加型学習の潮流

- 帝京大学高等教育開発センター・講師

- 森 怜奈

共感の社会化の具体的形態としてワークショップに注目します。「ワークショップ」と呼ばれる活動が、昨今、さまざまな領域で広く実践されています。ワークショップは「他者との相互作用の中で何かを創りながら学ぶ学校外での参加型学習活動」と定義することができます。本講義では、参加型学習の歴史的・思想的背景と現代的な意味、デザインする上での留意点について考えます。

 

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- 【総括】臨床する人文学

- 理工学部・准教授

- 鞍田 崇

ローカル・スタンダードへの問いかけを車の両輪のように駆動する二つの視点があります。哲学とデザインです。両者は社会や世界の動きを根底から批判的に検証するという点、また対話と共感を重視する点で共通しています。しかし、一方は言葉で、他方は言葉にならない感覚に訴える手法で次のステージを切り開くものです。いま両者の連携が求められています。ローカル・スタンダードという具体的テーマのもとに見てきたのは、両者の連携の模索でもあります。それは、いまだからこそ必要な人文的視点の意義を体現するものでもあります。そうした点を総括的に考察します。

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Photo: 明治大学生田キャンパス第二校舎2号館(設計:堀口捨己、1965)     

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2015年09月24日

戦わなければならないのは何のか、誰なのか 

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ほんとうに戦わなければならないのは何なのか、誰なのか。

戦うなんてガラじゃない。でも、最近そう考えることがしばしばあります。それぞれの取り組みは間違っていないのに、肝心の「敵」を見誤り、結果届けるべき言葉が届かないまま、下手をすると同士打ちになっている気がしてなりません。

戦うよりもむしろ、ボクは育てたい。ひとりひとり、ひとつひとつ、無数の小さな試みをくりかえし訪ね、言葉をかさねる中で、それらをカタチあるものにする「つなぎ目」になりたい。それが自分の役割だと思っています。
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連休明けて、仕事の秋はじまりました。以下、トークやシンポ、明大後期授業のスケジュール。詳細はそれぞれ別途お知らせします。ご都合つく方はぜひ。
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[トーク・シンポなど]
◎燕三条 / ツバメコーヒー  
 10.03. SAT 15.00
◎常 滑 / とこなめ陶の森  
 10.10. SAT 15.00
◎丹 波 / 兵庫陶芸美術館
 10.31. SAT 14.00
◎鯖 江 / Meet The Makers
 11.01. SUN 夕方
◎中 野 / 明治大学中野キャンパス
 11.07. SAT 12.00
◎駒 場 / 東京大学生産技術研究所
 11.19. THU 13.00
◎西 宮 / 武庫川女子大学甲子園会館
 11.21. SAT 13.30

[ 明治大学後期授業 ] 「インティマシーをデザインする」
駿河台・リバティタワー1136教室 / 16.20-17.50
◎コンセプト
 09.29 鞍田崇
*以下、各回ゲストをお招きします。
◎ノーマル(普通)
 10.06 赤木明登:漆工
 10.20 三谷龍二:木工
 10.27 菅野康晴:編集
◎センシュアル(感性)
 11.24 河口龍夫:美術
 12.01 成実弘至:ファッション批評
 12.08 諏訪綾子:フードアート
 12.22 片桐功敦:花
◎ローカル(風土)
 11.17 嘉原妙:地域アート
 12.15 三浦雅之:農業
 01.12 華雪:書
◎リアル(日常)
 10.13 小林和人:日用品
 11.10 大西麻貴:建築
 01.19 田村尚子:写真


photo: 那須町 2015
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2015年07月29日

ヤッパリ、民芸? 

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前期の大学院のゼミで小熊英二さんの『社会を変えるには』を再読した。2012年、大飯原発再稼働に反対する首相官邸前デモが盛り上がった機運を受けて刊行されたもので、現代の日本社会における社会運動のあり方について、多くの示唆を与えてくれる好著だ。3年後のいま読み返しても、ナルホドと思うところが数多い。それはもちろんデモについてでもあるのだけど、なかでいちばんグッときたのが社会の現状を指摘したこの一文だった。

「消費者でいるぶんには、とてもいい社会といえます。しかし生産者、労働者にはつらい社会です。」

民藝にせよ、環境問題にせよ、「ローカルスタンダード」にせよ、この間自分が携わってきた事柄の背景にあるのは、まさにこうした社会の現状に対する違和感。そのことを再認識し、あらためて自分が考えを深めていく方向を明示してもらった気がした。

働くこと、労働すること、物を作り出し生み出すこと、それを他者と共有すること。それこそが日々の暮らしであり、本来人間にとってあたりまえの営み。そこにはあたりまえのままにささやかながらも伴う悦びがあり、「生きがい」とはこの小さな悦びのつらなりのことだったはず。それをどう回復するのか。

僕が民藝に託した「いとおしさ」をデザインするというのは、まさにそれを問うものでもあるのです。

21世紀の暮らしの哲学

 

鞍田 崇

 

 第3回 ヤッパリ、民芸?

 

 近ごろ、民芸がまたブームだ。だが、どうもその方向性が定まらない。

 一方では、本来の民芸の歪曲としてブームを危ぶむ声がある。他方で、手仕事の意義は認めつつも、ときに大量生産のプロダクトも包括し、新しい民芸を提案する動きがある。旧態依然としたイメージがつきまとう民芸にあきたらず、「生活工芸」という言葉を使う人も出てきた。だが、まだ“何か”が足りない気がする。

 上田恒次という陶芸家をご存知だろうか。

 大正初年に生まれ、河井寛次郎に師事し、生前は民芸の中心的存在の一人であったが、民芸好きでも、いまは彼のことを知る人はほとんどいないかもしれない。僕が知ったのも、勤務先の近くにたまたま彼の旧宅があり、散歩の途中、ふらりと訪ねたのがきっかけだった。

 この建物には、興味深いエピソードがある。陶工を志した恒次は、十代の終わりごろ、民芸運動のリーダー、柳宗悦の著作『工芸の道』に感銘を受け、柳の盟友であった寛次郎の門を叩いたという。だが、寛次郎は頑として入門を認めない。なかば諦めながら、理想とする家屋と窯場の図面をもって再度寛次郎のもとを訪ねたところ、弟子入りを許されたそうだ。

 話はそれで終わらない。数年後、恒次は自ら鏝(こて)を取り、この図面を現実のものとする。当時弱冠二十三歳、建築には素人の青年が作り上げた新しい生活空間が、洛北岩倉にいまも残る上田恒次旧宅である。

 陶芸家としての恒次の道は、住まいに関する構想とその実現によって開かれたといってよい。そのことは、個々のモノよりもむしろ、生活全体を見通し、理想の暮らしを自らの手で作り上げていくことこそ、民芸の原点だったことを示している。

 現代風にいえば、ライフスタイル・デザイン。その原型が民芸にはあった。現代の僕らに足りない“何か”は、そこにひそんでいる気がする。魅力的なモノたちはあふれている。それらを手がける作家たちの意識も高い。あともう一歩。そこを考える人が出てきてほしい。


photo: 京都・上田恒次邸, 2009

(『ソトコト』2010年12月号、No.138)


ひきつづき民藝関連ですが、このたび、以下のトークに出ることになりました。無印良品グランフロント大阪の展覧会の関連で、おなじ大阪の民博の方々が企画協力されているもののよう。ご都合つく方はぜひ。

- 無印良品グランフロント大阪「世界の民芸と暮らしの知恵展」

- 世界の民芸とインテリア

<趣旨> 

民芸ブーム再燃とも言える現在のシーンについて、または暮らしに取り入れるアイデアについて、アートやカルチャーへの広がりも含めて語っていただきます。登壇者には、民芸品を上手に取り入れているくらしのシーンを写真でご紹介いただきます。


■日 時/8月8日(土) 16:30-18:00

■場 所/無印良品 グランフロント大阪 OPEN MUJI

■定 員/35名(要予約)

■参加費/無料

■登壇者

 小林和人(「Roundabout/OUTBOUND」店主)

 江口宏志(ブックショップ「UTRECHT」前代表)

 上羽陽子(国立民族学博物館)

 鞍田崇

■申込先/無印良品グランフロント大阪の店頭、または電話(06-6359-2171)にて。

■詳 細/http://www.muji.net/mt/events/event/027451.html

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2015年07月23日

本来の場所に 

Sepia 

来週、多摩美術大学で特別講義をさせていただくことになった。工芸学科の「陶プログラム」、やきものを学ぶ学生さんたちの課題制作の一環で、テーマは「用」。

 

多摩美では、やきものといっても器づくりを奨励しているわけではない。むしろ、「やきもの=器」という先入見を捨て、「従来の陶芸の枠を見直し」、土という素材と陶という手法がもつ表現の可能性を追求している。そのなかでの「用」。表現することが前提としてあって、そのうえでの用ということ。ひとまずそう言ってよいと思うのだけど、ここで思考停止。表現ありきの「用」って何だろう。おのれを表現するための手段としての「用」ということだろうか。でも、それって「用」っていってよいのだろうか。「用の美」を唱えた民藝は、個人作家的な作為と表現追及という姿勢からの脱却をめざすものだった。表現を排除してはじめて見えてくるのが、「用」の世界といってもよい。表現=自己、用=他者、目指す方向がそもそもちがう。表現と「用」の並存は、へたをすると、木に竹を接いだような不恰好なことになりかねない。もちろん、表現的でありながら、使えるものを手がける人はたくさんいる。でも、それはあくまで「使える」ということであって、「用」なんて大見得切るようなものではない。問題は「用」という視点にもありそうだ。依頼くださったのは、かねてより懇意にしている尹熙倉さんでもあり、ためらうことなくお引き受けしたものの、さて、何を話そうか、この期に及んで少し戸惑ってしまった。


ホントいったい何を話せばいいんだろう?

 

やきものに夢中になっていた時期があった。大学院修了後にお茶をはじめたのキッカケで、とりわけ茶碗に深くのめり込んだ。

もちろんいまでもやきものは買う。だけれども、「夢中」とか「のめり込む」というのとはチョットちがう。あの頃は熱に浮かされた感じだったのかもしれない。それももう10年以上前の話で、今となっては、当時何にそんなに惹かれていたのか、まるで思い出せない。物質?存在?リアリティ?造形?思想?そのころ手にした図録をパラパラめくると、心惹かれたはずの言葉のいくつかを見出しはするものの、鷲掴みにされた情感の高まりは再来する気配がまるでない。


ふと思い出して、ロッカー奥にしまい込んでいた古いメモ書きを久しぶりに開いてみた。それは京都の樂美術館で開館25周年を記念して行われた「喜有此一碗(喜び此の一碗にあり)」という展覧会(2003年春季)について記したもので、詳細は省くが、とにかく楽しく鑑賞し、そのあまり、展観された一碗一碗について詳細に――いまから思えば、あまりにも詳細に書き留め手製の冊子としたものだった。

ブルンブルンと頭をふるう。あの頃の自分が変だったのではなく、きっと現在のこちら側にも問題はある。当時手にしたやきものの多くはたしかに表現を追究するものだった。それが、ひさしく、そういう姿勢で手がけられたものに接することが少なくなってきた。過去と現在、ブリッジできていないのは、ふたつの自分だったのかもしれない。


メモ書きには、茶碗に対峙する楽しさ、喜びが溢れていた。なにもかもはじめてのこと、ワクワクドキドキ、それだけ。難しいことは何もない。人間くさく親しみに満ち、時にグッと惹きつけられるカッコよい大人たちがいるだけ。ボクはただ、彼らの自由で生き生きとした姿に惹かれていただけ。それはほんとうは今も何ら変わらない。そもそも多摩美講義にお声がけいただいた尹さんとその作品に対して感じていることもおなじだったハズ。

ようやく原点。ふぅ、思いのほか、今の自分はどこか凝り固まっているのかもしれません。

21世紀の暮らしの哲学

 

鞍田 崇

 

 第1回 本来の場所に

 

 「in situ (イン・シトゥ)」というフレーズがある。「本来の場所に」を意味するラテン語だ。研究室みたいな特別な場所ではなく、もともとの環境においてあるがままの姿で存在するさまをいう場合に用いられる。

 美術家の尹煕倉(ユン・ヒチャン)はかつてロンドンで、このフレーズをタイトルにしたアートプロジェクトを行った。レンガを積んでできたロンドンの街中に、レンガと同じ素材を用い、レンガ工場の窯で焼いた四角い立体を置いてみるというものだ。

 このプロジェクトに尹が in situ というタイトルを付けたのは示唆的な気がする。

 レンガに倣った彼の立体にとって、なるほどロンドンの街並みは「本来の場所」だろう。だが、両者には根本的なズレがある。四角い立体はもともとそこにあったわけではなく、なによりもレンガのようで、レンガじゃない。

 まるでそれをはにかむように、尹の作品は、街角にそっと寄り添う。驚くことに、この恥ずかしがりの存在を受け入れた瞬間、なにげないあたりまえの街並みが、かけがえのないものとして浮かび上がった。やはりここが「本来の場所」だというふうに。

 「本来の場所に」、僕らにとってそれは何を意味するのだろうか。

 「本来」などというとオオゲサだけども、要はあるがまま。あえて手を加えてどうこうではなく、あたりまえの姿ということにすぎない。だとすれば、ことさら意図せず振る舞える日々の暮らしは、僕らにとって最も身近な「本来の場所」といってよい。

 ところが、それを僕らはともすると別物にすりかえてしまう。それこそオオゲサに理想をかかげ、「本来の場所」をどこか別のところに求めてしまう。

 たとえば、自然にやさしく、地球にやさしい暮らしというのもそうだ。やさしさそのものは悪いことじゃない。でも、それは頑張ってわざわざやることじゃない。むしろこういう時代だからこそ、あたりまえのものをあたりまえのままに愛おしむ心こそ持ちたい。

 そういう思いで、4年にわたり、「人と自然:環境思想セミナー」という公開講座を企画してきた。ここではその間に培ってきたことをふまえつつ、僕が日々考えることを気楽につづっていこうと思う。

photo: 京都・四条通, 2008

(『ソトコト』2010年10月号、No.136)

ちなみに、多摩美講義の概要は以下のとおり。

ご都合つく方は、気楽にどうぞ。


-- 「用」について
■講 師/鞍田崇 (担当教員:尹 煕倉)
■日 時/7月28日(火) 13:00-16:10
■場 所/多摩美術大学 八王子キャンパス
      レクチャー棟302教室
      *教室変更になった模様。わかり次第アップします。

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2015年07月21日

メメント・モリ 

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一年ほどだけど、雑誌でコラムの連載をしたことがある。どこで誰に響いているのか、ほとんど手応えらしいものもないまま、毎月800字の言葉をポツポツと紡ぎ出していた。ポツポツと。

暑いあつい海の日の昨日、出かける道すがら、めいいっぱいの蝉の声を耳にして、ふとその連載のことを思い出した。

仕事のあとで、二、三、手もとのUSBにあった原稿を読み返してみた。連載は誌面刷新のせいで終わってしまったけど、このまままた自分の記憶のなかに沈め込むのが少し惜しい気がしてきた。そこで、これからこちらに再録していこうと思う。ポツポツと、順不同、思いつくままに。

まずは昨日思い出した夏の記事から。

21世紀の暮らしの哲学

 

鞍田 崇

 

 第12回 メメント・モリ

 

 蝉の鳴き声を聞いていると、遠い記憶へと誘われる。

 幼少期、夏はかならず瀬戸内の祖母の家で過ごした。岬にあったその家から浜辺はすぐで、日が昇り、蝉の声が聞こえだすと、裸足のまま海へと松林をかけおりたものだ。

 かけおりる途中、素足に松葉がチクチクあたる。時々尖った葉先が刺さる。早く泳ぎたいという思いに前のめりになりながら、片足立ちになって松葉を抜き取り、海へと再び走りゆこうとした瞬間、林の中に響き渡る、蝉の大合唱。その蝉の声がいまも耳に残る。


 変わらぬ夏の記憶は、逆にそれがすでに過去のものであることを知らしめるものでもある。

 かつて祖母が暮らした家はもう何年も空き家となったままで、いまは夏草に覆われている。どこか艶やかな趣が漂っていた海辺の旅館街はリゾート風に模様替えし、猿山や鳥小屋があったバス・ロータリーは広々とした駐車場になった。もちろん祖母はすでにいない。ただ、蝉の鳴き声だけが、いまも変わらず松林に響き渡る。

   黝(あをぐろ)い石に夏の日が照りつけ、
   庭の地面が、朱色に睡つてゐた。

 書きながらふと中原中也の詩「少年時」を思い出した。夏の午後には、蝉も鳴きやみ、すべてが静まりかえる時間がある。日は高く、日ざしは目が痛くなるほどまぶしく白い。「夏の日の午(ひる)過ぎ時刻/誰彼の午睡(ひるね)するとき」、あたかも何もかもがそのまま永遠に静止したかのような気すらする。そんなただ中だからこそ、僕らは過ぎゆくもの、失われたものへと思いをはせる、とも言えるだろうか。

 夏は、追憶と鎮魂の季節だ。死を思う。哲学をなりわいとしながらも、ひさしく死はもっとも苦手なテーマだった。けれども、そんな僕でも、夏になると、死を思う。これも年のせいか、あらゆるものが生の充溢に輝けば輝くほど、死を思う。

 死を思うことは、具体的で個人的な事柄だ。故人を偲び、失われた風景を想起し、いまここにいる自らの死を思う。どこまでも平凡な日常のかけがえのなさに対する共感として。


photo: Jardin des Plantes, Paris, 2009
(『ソトコト』2011年9月号、No.147)

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2015年06月20日

生活工芸のこれから 

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4月につづいて、ふたたび金沢でトークをします。今回もおなじく、金沢の生活工芸プロジェクトの shop labo モノトヒト の展示関連で、このたびは、伊賀の gallery yamahon さんの企画。同ギャラリーを主宰する山本忠臣さんの発案から、輪島で漆を手がける赤木明登さん、金沢でガラスを手がける辻和美さん、それから山本さんご自身の三人に僕も交えていただき、「生活工芸のこれから」と題してトークをします。
生活工芸をめぐっては、一年ほど前に『「生活工芸」の時代』という本が刊行されて以来、各地で議論を重ねてきました。その間、山本さんとは2月に燕三条で、辻さんとは4月に金沢で、それぞれ一緒にトークをしました。お二人はいずれも生活工芸について肯定的な立場にあります。対して赤木さんは否定的。その赤木さんとは、つい先週、池袋でトークイベントをしたばかり。
僕自身は、肯定か否定かと問われれば、生活工芸を肯定する側です。なので、先週のトークは赤木さんとのガチンコでもあったのですが、さほど激しくやりあったわけではありませんでした。ひとつにはこの金沢の企画があったから。でも、それ以上に、生活工芸をめぐる「問題」そのものはじつは対立ではなく共有しているからでもありました。
問題というのは、生活工芸の「これから」はどうあるべきかを考えなきゃいけない、ということ。それをふたたび金沢で考えます。スタンスはただ前向きに!!

「生活工芸のこれから」
- 赤木明登(塗師)
- 山本忠臣(gallery yamahon 代表)
- 辻和美(硝子作家)
- 鞍田崇(哲学者)

2015,07,03 FRI 15,00-17,00
無料・50名(申し込み先着順)

◎会場・申し込み 金沢クラフトビジネス創造機構


photo: 高林ノートの裏表紙。同ノートには自邸に先立ち高林兵衞が手がけた最初の民藝館(1928)に関するスケッチが残されており、彼のパッションのほどが伝わってきます。上述の「問題」を考えるうえでも、こうした民藝をめぐるエピソードも無視できないと思うのです。
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2015年06月19日

高林兵衛邸 

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ただただ居心地のよい空間、家族が楽しめる空間を求めたということ。それに尽きるということ。1929年、作ったのは夢多き30代の青年です。 昨日、民藝運動草創期の支援者、高林兵衞の自邸で確かめたのは、そういうことでした。


hamamatsu 2015
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